サミュエル・ベケットの小説三部作について

小説三部作を読んで以来ずっと考えてきたことをまとめようと思います(まとまらないかもしれませんが)。

まずはじめに、小説三部作とは、『モロイ』、『マウロンは死ぬ』、『名づけえぬもの』の3作です。 これら小説3部作は、一部を除き、ある主体による一人称の記述、という共通の構図を持っています。 ここで書き手となる各主体には、いくつかの共通する特徴があります。 例えば:

  • 身体の不具
    • 片足が動かない
    • 寝たきりで手しか動かない
    • 手足の欠損
  • 記憶の不具
    • 過去の記憶の欠落
  • 記述の不具
    • 直前の記述に対する否定
    • ピリオドのない長文

何故彼らはこのような特徴を持つのでしょうか。 もっと言えば、なぜベケットの書く主体はこのような特徴から逃れられないのでしょうか。 今回は身体の不具という観点から考えたいと思います。

身体の不具について

To be literally incapable of motion at last, that must be something! My mind swoons when I think of it. And mute into the bargain! And perhaps as deaf as a post! And who knows as blind as a bat! And as likely as not your memoiy a blank! And just enough brain intact to exult! And to dread death like a regeneration. (Molloy)

モロイは片足が硬直しており、やがてそれが進行して、最終的には匍匐で移動することになります。 モランは当初特に不具のない身体を持っていました。しかし、モロイの追跡を続ける中で片足が硬直してゆきます。 マウロンは手しか動かすことができません。 名づけえぬものはといえば、もはや肉体を持っているのかどうかも怪しくなってきます。

なぜこのような身体的不具者として書き手が構成されるのでしょうか。2つの見方があると考えています。また、後者は前者に接続します。

  • 二元論の問題:
    心身二元論的思考に伴う課題が書き手たる主体の身体的不具という形で現れている
  • 記述可能性の問題:
    記述によって構成される主体は、必然的に心身二元論的思考に立たざるを得ず、二元論の問題が生じる

二元論の問題

ベケットの作品に対しては、しばしばその心身二元論的思考が指摘されています。 そこで、一旦以下のような前提を置いてみましょう。

  • 主体は、ただひとつの意識と、その物理的インターフェースである身体によって構成される
  • 主体の記述は、すべて意識を通じて行われる

まず身体について。身体の駆動においては、並列的な動きが可能な部分があると思います。 人間は両手両足を同時に動かして走りますし、ピアノの演奏者は左右の手を並列に動かします。 余談ですが、ベケット自身、学生時代からスポーツに秀でており、ピアノも演奏していました。

次に意識について。意識はただひとつしか存在しません。 ここで一つ課題が生じます: ただひとつの意識が身体を操る時、上記のような並列処理は可能なのでしょうか。

対象 特徴
身体 並列的
意識 直列的(単一)

課題:

  • 身体を動かせない

この課題が身体の不具としてあらわれているのではないでしょうか。

記述可能性の問題

まずは上記の課題の解決策を考えてみましょう。 ただひとつの意識という前提に問題があることは明らかです。 そこで今度は以下のような前提を付け加えてみます。

  • 意識は全体として一つだが、一定の独立性を持ち並列に動作可能な複数の機能の集合体として構成される

ここでその意識を脳と置き換えれば、一元論になるかと思います。 ただ、正直、脳科学や脳神経科学とかに詳しいわけではないのでこれ以上は言及しません。 なんにせよ、カルテジアン劇場的モデルを普通に否定する、という話です。 そういう意識(脳)なら普通に身体を稼働させられるでしょう。元に人間は身体を動かせています。 身体と意識の問題は一旦これで解消されたことにしましょう。

では記述について。記述や語りは単線的なものだと言えると思います。 文章は基本的には上から下に一つの線上に綴られます。 仮に記述の過程で意識が並列的に稼働したとしても、少なくともベケットの作中では、最終的な文章はやはりただひとつの線上に表現されています。 ここで課題が生じます: このような並列的な意識を持つ主体は、どうやって自身を記述するのでしょうか。

対象 特徴
意識 並列的
記述 直列的

課題:

  • 主体を記述できない

この課題に対しては、主体を記述可能な範囲|形で記述する他にありません。 そしてそのような記述可能な主体の範囲|形こそが、単一的、直列的なただひとつのもの、心身二元論における意識に近いものになってしまうのではないでしょうか。 そのように記述される意識と彼が持つ身体の間に生じる空白を排除するには、身体を意識に近づけるしかありません。 結果、やはり身体の不具へと至ってしまいます。

まとめ

二元論と記述可能性という2つの問題を考えた結果、身体と記述という相反する特徴を持つ要素に挟まれて、主体はそのどちらに寄ろうとも課題が生じてしまう構図が見えてきます。

対象 特徴
身体 並列的
意識 or 脳 単一的 or 複数的
記述 直列的

課題:

  • 前者の場合
    • 身体を動かせない
  • 後者の場合
    • 主体を記述できない

結論:

  • 二元論的な主体は、その制約によって可能な身体も制限されてしまう。
  • 記述によって成立する主体は、二元論的区分上の意識に近いものになってしまう。

小説三部作の、特に『モロイ』、『マウロンは死ぬ』では、この二元論の問題に寄って、単一的意識と並列的身体の不一致という問題が、身体的不具による身体の単一化という形で現れているのではないでしょうか。 そして、『名づけえぬもの』では、無数の声と主体の割り込みという形で、単一的意識とその記述という構図を突き崩すことが試みられているのではないでしょうか。

モロイ(自身の記述) => モラン(モロイの追跡の記録) => マウロン(自身の状況の記述, いくつかの物語の記述) => 名づけえぬもの(無数の自己|非自己の口述) という変遷を進行と捉えるなら、記述によって構成可能な主体は、結局自身も記述することしかできない主体にしかなり得ない、そしてその主体による記述は、、、という構図による主体、記述、階層の崩落の進行と見ることもできるのではないでしょうか。

今度は、記憶の不具や少し触れた記述の、特に重要な時間との関係についての問題について考えたいと思います。最終的に言葉の問題に突入していければと思っています。

『ゾンビ日記』読んだ

面白かったです。ですが、という感じです。
 どういう話かというと、世界中の人間が、死後、死んでいるにもかかわらず起き上がって歩きまわり始め、やがて、寝て起きたらランダムにそのようなゾンビ状態になっているというような事態が進行した世界で、最早ゾンビ以外誰も居なくなった中一人生きる男の話で、その男自身の日記という形式をとっています。
 その男というのが日々何をしているのかというと、どこかのビルの上から、毎日きっちり同じ数、町を蠢くゾンビの頭を狙撃しています。彼の生活はその行為を中心に最適化され、とてもシステマチックです。日記に書かれているのは、このゾンビの溢れた世界において、その行為がいかにして正当化され、意義あるある何かとして位置付けられるかという事を中心に巡る男の思考が主です。
 人間がゾンビに変わり世界がゾンビに溢れる事、日々そのゾンビ達の頭を撃ち抜く事、というのは、単にそれ以上の意味を持っており、日記の内容も、銃について、死とは何か、そこから翻って生とは何か、押井守がこだわる身体性の問題、人が人を殺すという行為に対する人間の本能的拒否感とその克服の歴史、一部の例外的人間の様相の考察など、広い射程に及びます。このあたりは押井守らしさというか、この主人公はどこまで押井守なのかと勘ぐってしまう所があります。
 男の中では、唯一生きている人間である自分がゾンビを撃つ事で、彼等を葬り完全に死なせる事になり、それが、ゾンビ以外誰もいない世界ににおける自分の、生きる上でのある種の目的意識と自身の位置付けとして機能しています。(人間は、正しく死がある事で初めて正しく生きる事が出来る云々、、、)ただの殺人者ではない訳です。それに乗っかって、極めてシステマチックな日々の生活が組み立てられています。
 何らかの目的に沿ったシステマチックな生活様式を組み立て、それに従って生きる事自体が欲望されこのような目的意識と思考が作り出されたのか、その逆なのかはわかりませんが(両方ではないかという気がします)、何れにせよ、それはある種の不能性と(死は共同体の中で正しく消化されて初めて死となる云々言いつつ、最早ゾンビしかいない。男が望むような近代的な(?)他者がいない)、しかしそれでもそれを希求する性向が空転した結果捏造された何かであるように思えます。不能なマッチョというか。一歩引いてみれば、ゾンビだけの世界で毎日きっちり同じ数のゾンビを射撃する事に最適化された生活をシステマチックに送っているゴルゴ13みたいな人間は何かおかしい訳です。とりあえず、自分はおかしいと思いました。
 形式について言うと、日記という形式はそのおかしさを相対化させません。そして、彼のような男が正しいと思えるには理論的である程度の例証を持ったもっともらしさが必要になる訳で、読者はひたすらその説得に耳を傾けなければならない訳です。そういう点で、うつ病の一人称小説的な危うさがあったように思います。
 日記でひたすら説得的に語られるという形式や、その書き手がゾンビしかいない世界の中で、それでも何か近代的な目的意識と存在意義を捏造し、それに立ってシステマチックに生活しているという事自体についてもそうですが、特に危うさを感じたのは、主人公の、ゾンビに対する一方的で独我論的な憐憫というか愛情で、その部分が最終的に、物語と彼の自己認識のターニングポイントとなっていたように思います。
 どういうことかというと、終盤、自分以外に生きている人間(達)がいて、彼等もゾンビを撃っているという事を遠くから鳴り響いた銃声から知った主人公は、その姿も見ぬままに彼等を分析し、ゾンビを暴力的に尊厳なく破壊する許しがたい存在とします。(一応銃声から用いている銃器を特定し、その非合理的に大きな銃器をゾンビに向けているという判断からそう結論付けてはいるのですが)そして彼等を殺しに行く訳です。
 主人公は、当初ゾンビを撃つ際と同じく、どこかからスコープ越しに相手を狙撃するつもりだったのですが、彼等の余りに非合理的な、身体性を欠いた銃撃スタイルを読み誤って、直接相対する形になってしまいます。(このあたりもなにか意図された皮肉さが出ています)そしておそらくはそれ故に、彼等をためらいなく撃ち殺す事が出来ます。そこで彼は自らを相対化する視点を獲得し、自身を殺人者と自認するという終わりになっています。
 何故直接に近距離で相対したが故に殺す事ができたかというと、相手(二人)の片方は少女で、子供はこれまでゾンビですら、スコープ越しに撃つことができなかった存在だったからです。彼は日記の中で、人が人を殺せるようになるために重要な要素として物理的距離と心理的距離の問題をあげていました。遠ければ遠いほど殺す事への抵抗が弱まるという事ですね。彼の場合は、物理的距離と心理的距離が反比例するような形で、スコープ越しに、物言わぬゾンビに対しては一方的な、独我論的な感情移入や愛情を持つ事が出来るが、直接相対する人間にはそのような感覚を持つことが出来なかった訳です。この距離や対象の問題というのは、画面越しの情報やロボットの内部と外部の関係、人形など、押井守がこれまでの作品の中で扱ってきたテーマの一つでもあります。
 最後のこの展開によって彼の独白や信仰がやや相対化されたことに、始めは何か安心する所があったのですが、よくよく考えてみれば、今後、自分が狂っている事を自認して、狂った自分の日記を書いていくというのは、何かディックの『ヴァリス』的な危うさそのものになってしまう訳で、ますますやばいという感じもあります。(それも含めてとても良く出来ているのですが)
 不能性や身体性の問題についても勿論そうですが、特にゾンビを巡る思考についてはイノセンスなどの"人形"についての考え等とも連続性があるように思いますし、本当に押井守らしい小説だったと思います。そもそも感想何も書いてませんが、本来感想としてはその辺についてや死生観の話(社会的な人間としての死と生物学的な死の違いや、そこから来るゾンビは何者でなんのメタファーか云々)について書くべきなのかもとも思うのですが、やっぱりあの人形周りの考え方に、イーガンとかに感じるような、うーんという印象があるので距離をとってしまいますし、あまり好きにはなれません。死生観についても、まあ近代臭いのが辛いみたいないつものあれです。
 ただ、とても上手く作られているように思います。あと、読んでから少し経つし今手元に本が無いのでやや違ってる所があるかもしれないです。

『NOTHING』見た

見ました。
 ヴィンチェンゾ・ナタリ監督の映画のやつです。なんとなく気になってたので見たんですが、パッケージや謳い文句から想像されるシリアスな物とは大分かけ離れていて、良かったです。
 あらすじを大まかに言うと、突然自分達とその家以外が全て消えた真っ白な世界に放り込まれてしまったクズい二人が、そこでバカげた即物的な探検や喧嘩などを展開しつつも、最後には真の友情に目覚めるという単純なもので、コメディとして見てもとても面白く、笑えるシーンが沢山あるのですが、話の方も結構シニカルでよく出来ていて良かったです。
 その話について、片や心配性の引きこもり、片や能力のない自己中という、社会的に上手く生きていくことが出来ていない二人が、それ故に打算的な共依存関係を築き(身の回りの世話の対価に家に住まわせる、引きこもりの面倒を見つつ、自分よりダメな相手に安心する)、ひもじく生活しているという状況がまずあるのですが、突如として、彼らが上手く生きていくことを阻んでいた世界そのものが彼等とその家を残して、丸ごと消え去ってしまう訳です。
 彼等はそのような新しい環境に放り込まれ右往左往しつつも、これまでとは違った関係に進んでゆくのですが、基本的には終始、しょうもなさを遺憾なく発揮し、バカげた抗争や残った僅かな物の奪い合い等(テレビゲームに敗れ家を追い出されたデイブが紐か何かで囲ったデイベニアという国を作ったりしていて、そのシーンも、笑えると共に示唆的です)を繰り返しています。
 この闘争状態は、いうならホッブズ的な自然状態、"万人の万人による闘争"的な状態で、社会に対する打算的戦略として成立していた関係が、社会の喪失によりキャンセルされ、残った僅かな物を奪い合っている訳です。外因的に決まっている闘争状態である以上、環境が変わらなければ何も変わらないので、このままだとバッドエンド直行という感じです。この監督の前作『CUBE』ではこのような闘争状態とゲーム的な環境のせめぎあいのようなものが突き詰めてられていたという風にも言えるのではないでしょうか。
 しかし面白いのはここからで、彼等は自分の消えて欲しいと考えたものを消すことが出来る事に気付き、闘争の果てに、自分達の首から上以外を全て消し合ってしまいます。その結果、相手の自然権やら家やら(なんでもいいのですが)を、奪うことも与えることも、本当に何も出来なくなるという状況になります。そしてその結果和解する事が出来る訳です。
 要は、ホッブズ的闘争状態の果てに、何も奪ったり与えたり比較することのない、極めて理念的なルソー的自然状態のような状況に至り、互いの関係に調和がもたらされるという形で、『CUBE』とは違い、救いを見せる事に成功しているという事です。 
 まあしかし、最後の結論部分に対して、世界を消すに留まらず、体さえも消し去って首だけにならなければ仲良くやれないというシニカルな結論と考えるか、首だけになりさえすれば、現実ではこんなにもしょうもない二人でも仲良くやれると考えるかは、見る人間に委ねられる所かと思います。自分は割と後者で、その事にちょっとした救いを感じました。和解といってもエヴァ的な分かり合いとかそういうものではないですし、だからこそよさがあると感じました。
 あと、登場するキャラクターの描かれ方について、彼等はクズいんですがとても素朴な人間として描かれていて、これは『CUBE』もそうだった気がするんですが、とても環境依存的に即物的に行動している(せざるを得ない)ので、見てる側としては動物実験を観察しているように感じます。最後の和解の場面も、互いに首だけしかないという状況がそうする事を規定している風に見えて、胡散臭さが薄いんですね。何もできなくなったし和解すっかみたいな。そして多分体や家が元に戻ったらまた争うのだろうというような。しかし逆に、そういう人間の描き方こそ胡散臭いという事も言えるのかもしれません。
 映像的にも、単調で何もない真っ白な世界という舞台にもかかわらず、それを飽きさせないアイデアに満ちた作りになっていて、同じく単調な、閉鎖的で何も無い箱だけをセットに、シナリオ的にも映像的にも豊かな表現がなさてれいた『CUBE』同様、この監督の、人間と数少ない道具だけで映画を上手く作れる力は素晴らしいと思います。
 それと良かったのが、真っ白い世界の透明な床が、ゴムのように伸縮するものになっていた所です。こうなっている事で、物や人はその上をポンポンと飛び跳ねるし、独特の反動音が響くので、殺伐とした何もない世界に、何も見えないにもかかわらず、常にどこか抜けた雰囲気を付け加えていました。これは終始シリアスになり切らないコメディ感にあふれたこの映画(シリアスにやり過ぎていたら最後の和解のシーンは割と白けるものになったと思います)を文字通り下から、絶妙に支えていたように思います。そして、弾む事が出来るというのが完全に何も無い世界の抜け穴としての何かとして機能していたように思います(首だけになった後もピョンピョン飛び跳ねて移動する)。あとエンドロールの音楽も良くて、この映画に対する印象は結構それに引っ張られてる気もします。
 こう見ると、ヴィンチェンゾ・ナタリ監督が『CUBE』で見せていたような、何か社会や世界から切り離され近眼的、原始的に振る舞う、コントロールされた人間、みたいなテーマが描けているし、やや荒唐無稽な状況も、コメディタッチで描く事で上手く切り抜けられているし、その先に救いを提示する事も出来ていて、シナリオ的にも良いし、それを映像として見せる事も上手くできているし、結構良いのではないでしょうか。結構恣意的な解釈ではありますが、この映画は何処を見てもまるで褒められていないのでまあ。
 そういえば、ヴィンチェンゾ・ナタリ監督の映画は他に『カンパニー・マン』というやつも見たことがあるのですが、これは諜報物をさらに戯画化したようなシナリオと、舞台のような戯画化された背景やセットが上手くマッチしていました。やはりセットの使い方がとても上手い監督のようです。
 上手くまとめられませんでしたが、良い映画でした。個人的に好きです。

『スカイ・クロラ』見た

見ました。
 なんか退屈とかつまらないとか、評判あまり良くないので、そこまで期待していなかったんですが、意外と良かったです。
 押井作品で退屈と言われればまず『イノセンス』的なものが想像されるのですが、本作はああいった過剰な引用とかによる冗長性とは割と真逆で、とてもストレートでシンプルな作品だったように思います。
 大まかな設定とストーリーとしては、なんというか、いかにも"歴史の終わり"的な状況の世界で、それでも人間が平和に充実した生を送る為に、ショーとして、自己目的化した戦争が行われていて、そんな戦争に関わる民間軍事会社の、歳を取ることが無いキルドレと呼ばれる不老の戦闘機パイロット達の日常が描かれています。作品の舞台も、小さな基地、よく行くダイナー、空の上+αといった程度でとてもミニマルです。
 作品のテーマはだいたい、成熟する事の無い青年達の、反復される日常の空虚さとどう向きあい、あるいは乗り越えるかというような物で、よく言われる終わりなき日常と未成熟という話を実にストレートにやっていると思います。
 映像的には、すごい空戦シーンとかもまああるのですが、空虚な日常を、TVアニメとかで出来るような所からは大きく離れた(主に制作費的に)映画的なスケールで丁寧に描いている所が良かったです(このへんが退屈さの原因なのかもしれないですが、それは作品のテーマと結びついた物なのでまあ)。
 まず、反復という事が強く強調されており、また、とても金がかかっているであろう高水準な映像にも関わらず、基本的に色彩が希薄で空虚な感じになっています。他にも、飲食のシーンでは、同じ銘柄のビール瓶のみが執拗に出てきたり、冷凍の何かしらを作業のように食べていたりととても味気なく、唯一出てくるまともな食べ物であるダイナーのミートパイに対しても、どこかで食べたような味だという感想が語られます。
 特に良かったのはパイロットと仕官の3人でボウリングをするシーンで、反復される投擲と倒れるピン、それを戻すピンセッターの機械的な動き、それらに対する気のないリアクション等はそのままこの作品全体を象徴しているように思いました(ちょっと調べたら、第2次大戦直後の、廃墟の文学と呼ばた文学運動(?)の詩人であるヴォルフガング・ボルヒェルトという人の詩に、ボウリングという詩があったので、そっちの意味もありそうです)。
 物語的には、そういった成熟出来ない繰り返しの日常の空虚さに対して、一人ちょっとズレた位置にいる(本人はキルドレだが、キルドレでない娘(らしい)がいる)士官の女性を使って、単に退屈な日常を描くだけでない終わらせ方を出来ていて良かったです。
 まあそんな感じで、テーマは割とストレートだし、その表現も高水準で丁寧な作品だったと思いました。
 ただ、これ見ててなんとなく、ハーモニー・コリン監督の『Gummo』という映画を思い出しました。これは『スカイ・クロラ』の、徹底的に去勢された反復という形とは対照的に、全てが過剰というか、ひたすらに雑然としていて、生々しく混沌とした刹那的な日常が延々続いているというような形で、同じ終りなき日常の空虚さのような物を描いているのですが、自分にはこっちのほうがもっと踏み込んでいてキツい表現に思えました。
 というのも、『スカイ・クロラ』の終盤に主人公のモノローグで、「それでも・・・昨日と今日は違う 今日と明日も きっと違うだろう いつも通る道でも 違うところを踏んで歩くことができる いつも通る道だからって 景色は同じじゃない それだけではいけないのか それだけのことだから いけないのか」という問いかけるようなセリフがあるんですが、その問自体が『Gummo』的な日常の中では無意味なんじゃないかと思えるからです。
 あまり関係無いんですが、昔、建築家のレム・コールハースがドバイの高層ビルのコンペで、何も装飾らしき物のない白いのっぺりした板みたいなビルを提案していて、そこでは周囲の過度に装飾され奇を衒ったビル群から、あえて何もしないこのビルは存在感を示すというような事が言われていたのですが、そののっぺりしたデザインも、周囲の雑多な差異の中に埋もれて、周りと別に何も変わらないんじゃないかと思った事を思い出しました。
 そういえば、"歴史の終わり"以降の人間は、アメリカ的な動物と日本的なスノビズムしかないというコジェーヴの話(全く詳しくない)に、『Gummo』と『スカイ・クロラ』はそれぞれ上手いこと対応しているようにも見えますね。個人的にはどちらも大差ないように思えるのですが。まあ詳しくないし単なる思いつきです。
 いやでもこれは悪くない映画でした。

『ニッケルオデオン 赤』読んだ

読みました。
 最近いろいろ漫画を買って、どれもうーんという感じのものばかりだったのですが、その中でこれは良かったので。ただ、感想とか書くのは難しい感じだったので適当な事しか書けませんが。
 友達の持ってた同人誌で萌え4コマの特集が組まれてて、前に冒頭だけチラッと見たことがあるんですが、あずまん的な文脈から、たった4コマで成立する(時にしてすらいない)非物語的な何かがフラットにバーっと並んでいる、そんな環境に生きるキャラクターはどうなったかみたいな事がたしか書いてあったと思います。結局どうなったと書かれていたのかは知らないんですが、なんとなく、萌え属性のデータベース的消費の最も先鋭的な形として、まあ軽くフラットで極端な感じになったのでしょう(すいません読みます)。この作品はそういう文脈で言われているような、キャラクターのある種の軽さ(?)みたいな物自体を、いびつさや儚さとして上手く美しく物語や形式に内在化させられているのではないかと感じました。
 本作は、全て8ページで完結するショートショートな短篇集のようになっています。萌え4コマの多くが基本的に物語の無い冗長性の塊のような物であるのに対して、この作品での8ページという制約からは、キャラクターの寿命というか儚さというか、ウルトラオレンジ的な何かを強く感じさせられます。あとこれも少ないページ数だからこそ出来るのだと思うんですが、とても物語の組み立てが上手いと思いました。
 キャラクターの造形についても、初音ミクのパクリだとか露骨に空虚な感じのキャラクターが出てきたり、皆大きい割にはうつろな目をしていたり、『バイオメガ』の復物主の世界に出てくる人間のような感じがあり、常にどこか欠けているような、いびつな印象を受けました(Wiki見たら作者の道満晴明は『シドニアの騎士』の同人誌を出した事があるようです)。
 そんなややいびつなキャラクター達がちょっとした、やや寂寥感のある変わった物語を展開する訳ですが、しかし、それらの要素はとても良く馴染んでいてかつ高水準で、こういう造形、内実のキャラクターが8ページ程度の長さで、こういう話として描かれているという事はとても自然に思えました。
 道満晴明の漫画は他に『ぱら☆いぞ』と『ヴォイニッチホテル』しか読んだ事が無いんですが、前者は萌え(?)4コマで、後者は一応ストーリー漫画となっていて、ちょうどこの中間に位置付けられるのが本作なのだと思うのですが、この3つの中では本作に、方法的にも内容的にも最も魅力を感じました。
 今思ったんですが、『バイオメガ』のヒグイデとイルンゴルヌルカの話はそのままこの本に入れても良いような気がします。まあ良かったです。

『WATCHMEN』読んだ

読みました。
読むのがとても大変でした。うーん…。多分話自体もその背景も半分も分かってない気がします。
 まずコマ割りや表現技法等について、これはアラン・ムーアに限らずアメコミの基本的手法なのかもしれませんが、基本的に一ページ3×3の均等なコマ割りがベースになっていて、また、読み進める上での時間進行も、普通の日本のマンガと比べて一コマ辺りにかかる時間が長いように感じました。要するに、基本的にセリフ重視かつ、同じ単調なコマ割りで、前のコマと次のコマの連続的な変化とか差異を際立たせて積み重ねていくというかなり形式的なコマ割りで、クラウス・シュルツスティーブ・ライヒみたいなミニマル音楽と、ブルックナーの異常に幾何的というか形式性の高い交響曲を足して割ったような印象を受けました。
 『WATCHMEN』に見られる、交互に別のシーンを混ぜる演出や、徐々にカメラが引いてくようなアレ、コマ送り再生みたいな動きの表現、劇中劇のような漫画内漫画とストーリーが並列に並ぶ仕掛け等々は、多くがコマ割りの強い形式性によって支えられている訳で、それは素晴らしいのですが、これが普通の日本の漫画に慣れた自分の感覚だとなかなか読みづらくて、本を読むのよりも大変なぐらいに感じました。どうでもいいんですが、昔トランペットやってる先輩が、ブルックナー交響曲は演奏する側には禁欲的過ぎて苦痛でしょうがないみたいな事を言ってたのを思い出しました。  
 次にストーリーについて。正直分かった気がしないんで何か言うのも憚られるのですが、本作はリアルヒーロー物で、技術発展や社会の複雑化によって、かつてヒーロー達が活躍できたような、個人が暴力によって悪や犯罪と戦うという構図が衰退し、ヒーローは法律でその活動が規制され、加えて冷戦危機が極限に達しつつある黙示録的な状況のアメリカ、ニューヨークを舞台にして、かつてのヒーローの殺人事件を巡って、覆面自警団の強化発展版としての、生身の人間のヒーローと、事故で超人的能力を得た本当のスーパーヒーローを、人間的、社会的、政治的リアリティを持たせて描きつつ、世界大戦の危機とかといったかなり大きな物語が語られています。冷戦危機的な黙示録感や正義の挫折みたいな部分はなかなか古びていて、またアメリカ特有の問題のようにも思え、個人的に結構な距離を感じました。 
 これは単純に、自分がアニメとか漫画ばっか見てるからそう感じるだけかもしれませんが、個人的に一番気になったのは、アラン・ムーアの描くキャラクターの事です。アラン・ムーア原作のコミックについては以前『フロム・ヘル』を読んだことがあるのですが、これは思想史的背景やら近代の始まりやら理性への反逆やら何やらといったとても沢山の意味を、切り裂きジャックという事件と、その犯人であるウィリアム・ガロ卿に集約したような話でした。
 どちらを読んだ時にも思ったのですが、アラン・ムーアの描くキャラクターって、そのキャラクターや行動に背負わせている背景、隠喩、意味やらがあまりに大きいし多くて、最早キャラクターが人間なのか世界の暗喩なのか何なのか、よく分からないんですよね。
 どこまで大きな、多くの物事をキャラクターに背負わせる事が出来るのか、という視点で見ると、『WATCHMEN』ではコメディアンやロールシャッハなんかからそう言ったものを強く感じました。それをさらに突き詰めて、作者に背負わされた大きすぎる意味と人間性をせめぎ合わせると、ウィリアム・ガロ卿のように最終的には廃人にならざるを得ないのかも知れません。
 個人やその行動に限界まで大きな物を背負わせて物語を作るという作風にリアルヒーロー物というテーマはかなり適しているような気がしますが、単なる猟奇殺人鬼を描いた『フロム・ヘル』のほうが遥かにそういった側面が強いように思います。要するにアラン・ムーアの作風がとても近代文学的で、だからフロムヘルではそれを突き詰めたら時代を1世紀程遡らなければならなかったのだろうと思います。
 結局、アラン・ムーアのキャラクターに限らず、近代が終わる(始まる)から人殺すとか狂人になるとか、そういう種類の近代文学が個人的に理解出来ないというだけの事かも知れません。
 散漫かつ適当な感じですが、正直良くわからなかったのでまあ。

『ミッション:8ミニッツ』見た

見ました。
 映画見に行くのそういえば『ツリー・オブ・ライフ』(かなり苦痛だった)以来で、期日が迫ってる卒論からの現実逃避みたいな所もあったんですが、なかなか悪くない映画でした。
 この映画は、シカゴ行きの列車で発生した爆弾テロ事件の犯人を見つけ出し、予告されている次のテロを防ぐべく、そのテロで死亡した被害者達の脳から取り出した8分間の記憶と、彼等の残存した脳機能の一部を利用して作られた「ソースコード」というプログラムによって構築された、事件直前の8分間の列車内を再現した仮想現実に送られた軍人が、乗客の一人になり代わり犯人探しを強いられるという話で、彼が視聴者同様、何の説明も与えられる事無く唐突に爆破8分前の列車で目覚める事から物語が始まり、犯人を見つけるまで何度となくその8分間を繰り返します。なにかこれだけ読むとまどマギとかひぐらしみたいですね…。
 この話は真面目にSFとして見ると結構よく分からない所があって、例えばソースコードの限定的な仮想現実内で何故主人公は事件に関係がない自分の父親に電話できたのかとか、最後に示唆される、仮想現実内の仮想現実という形での無限の入れ子構造も、列車内の事故直前の8分間という限定的なシミュレートを超えて、その外部である「ソースコード」自体を「ソースコード」内でシミュレートしているという事になり、いささか奇妙な気がします。
 とまあそういう事を些細な事として見れれば、かなり面白いと思える映画でもあります。事件の謎解きと、自分自身とその仮想世界の謎解き、あと協力してくれる女性の口説きと、それと並行した、仮想現実が単なる事故前8分のシミュレーションでなく一種の可能世界なのだという事への目覚め等が、2つレイヤーを行き来し繰り返される事で、上手く交錯して進んでいく感じはとても刺激的だったし、繰り返される8分間の冒頭に出てくる、ある種不気味さや不吉さの象徴だった川の映像が、最後の8分間の冒頭ではとても晴れやかな映像に見えるような所や、終盤のストップモーションのシーン、最後の方の、クラウド・ゲートの金属の曲面に主人公達の歪んだ鏡像がいくつも重なって写されるシーンなんかはとてもいい演出でした。
 以前新聞で読んだこの映画の監督のインタビューに、自分はSF好きなオタク、みたいなことが書いてあったのですが、この映画のSF部分やヌルい仮想現実の存在論的な話はイーガンに依る所が大きいように思います。最後の救済も塵理論的な物と解釈することも出来そうです。そういえば、序盤の感じは、個人的に『万物理論』の冒頭の、殺人事件の被害者をナノマシンで一時的に生き返らせ、犯人を供述させようとするシーンが意識させられました。それでもやっぱりハードSFマニアとかからはdisられてそうな気がしますが…。どうでもいいけどこの監督ってデヴィッド・ボウイの息子なんですね。
 なかなか悪くない映画でした。はい。