サミュエル・ベケットの小説三部作について

小説三部作を読んで以来ずっと考えてきたことをまとめようと思います(まとまらないかもしれませんが)。

まずはじめに、小説三部作とは、『モロイ』、『マウロンは死ぬ』、『名づけえぬもの』の3作です。 これら小説3部作は、一部を除き、ある主体による一人称の記述、という共通の構図を持っています。 ここで書き手となる各主体には、いくつかの共通する特徴があります。 例えば:

  • 身体の不具
    • 片足が動かない
    • 寝たきりで手しか動かない
    • 手足の欠損
  • 記憶の不具
    • 過去の記憶の欠落
  • 記述の不具
    • 直前の記述に対する否定
    • ピリオドのない長文

何故彼らはこのような特徴を持つのでしょうか。 もっと言えば、なぜベケットの書く主体はこのような特徴から逃れられないのでしょうか。 今回は身体の不具という観点から考えたいと思います。

身体の不具について

To be literally incapable of motion at last, that must be something! My mind swoons when I think of it. And mute into the bargain! And perhaps as deaf as a post! And who knows as blind as a bat! And as likely as not your memoiy a blank! And just enough brain intact to exult! And to dread death like a regeneration. (Molloy)

モロイは片足が硬直しており、やがてそれが進行して、最終的には匍匐で移動することになります。 モランは当初特に不具のない身体を持っていました。しかし、モロイの追跡を続ける中で片足が硬直してゆきます。 マウロンは手しか動かすことができません。 名づけえぬものはといえば、もはや肉体を持っているのかどうかも怪しくなってきます。

なぜこのような身体的不具者として書き手が構成されるのでしょうか。2つの見方があると考えています。また、後者は前者に接続します。

  • 二元論の問題:
    心身二元論的思考に伴う課題が書き手たる主体の身体的不具という形で現れている
  • 記述可能性の問題:
    記述によって構成される主体は、必然的に心身二元論的思考に立たざるを得ず、二元論の問題が生じる

二元論の問題

ベケットの作品に対しては、しばしばその心身二元論的思考が指摘されています。 そこで、一旦以下のような前提を置いてみましょう。

  • 主体は、ただひとつの意識と、その物理的インターフェースである身体によって構成される
  • 主体の記述は、すべて意識を通じて行われる

まず身体について。身体の駆動においては、並列的な動きが可能な部分があると思います。 人間は両手両足を同時に動かして走りますし、ピアノの演奏者は左右の手を並列に動かします。 余談ですが、ベケット自身、学生時代からスポーツに秀でており、ピアノも演奏していました。

次に意識について。意識はただひとつしか存在しません。 ここで一つ課題が生じます: ただひとつの意識が身体を操る時、上記のような並列処理は可能なのでしょうか。

対象 特徴
身体 並列的
意識 直列的(単一)

課題:

  • 身体を動かせない

この課題が身体の不具としてあらわれているのではないでしょうか。

記述可能性の問題

まずは上記の課題の解決策を考えてみましょう。 ただひとつの意識という前提に問題があることは明らかです。 そこで今度は以下のような前提を付け加えてみます。

  • 意識は全体として一つだが、一定の独立性を持ち並列に動作可能な複数の機能の集合体として構成される

ここでその意識を脳と置き換えれば、一元論になるかと思います。 ただ、正直、脳科学や脳神経科学とかに詳しいわけではないのでこれ以上は言及しません。 なんにせよ、カルテジアン劇場的モデルを普通に否定する、という話です。 そういう意識(脳)なら普通に身体を稼働させられるでしょう。元に人間は身体を動かせています。 身体と意識の問題は一旦これで解消されたことにしましょう。

では記述について。記述や語りは単線的なものだと言えると思います。 文章は基本的には上から下に一つの線上に綴られます。 仮に記述の過程で意識が並列的に稼働したとしても、少なくともベケットの作中では、最終的な文章はやはりただひとつの線上に表現されています。 ここで課題が生じます: このような並列的な意識を持つ主体は、どうやって自身を記述するのでしょうか。

対象 特徴
意識 並列的
記述 直列的

課題:

  • 主体を記述できない

この課題に対しては、主体を記述可能な範囲|形で記述する他にありません。 そしてそのような記述可能な主体の範囲|形こそが、単一的、直列的なただひとつのもの、心身二元論における意識に近いものになってしまうのではないでしょうか。 そのように記述される意識と彼が持つ身体の間に生じる空白を排除するには、身体を意識に近づけるしかありません。 結果、やはり身体の不具へと至ってしまいます。

まとめ

二元論と記述可能性という2つの問題を考えた結果、身体と記述という相反する特徴を持つ要素に挟まれて、主体はそのどちらに寄ろうとも課題が生じてしまう構図が見えてきます。

対象 特徴
身体 並列的
意識 or 脳 単一的 or 複数的
記述 直列的

課題:

  • 前者の場合
    • 身体を動かせない
  • 後者の場合
    • 主体を記述できない

結論:

  • 二元論的な主体は、その制約によって可能な身体も制限されてしまう。
  • 記述によって成立する主体は、二元論的区分上の意識に近いものになってしまう。

小説三部作の、特に『モロイ』、『マウロンは死ぬ』では、この二元論の問題に寄って、単一的意識と並列的身体の不一致という問題が、身体的不具による身体の単一化という形で現れているのではないでしょうか。 そして、『名づけえぬもの』では、無数の声と主体の割り込みという形で、単一的意識とその記述という構図を突き崩すことが試みられているのではないでしょうか。

モロイ(自身の記述) => モラン(モロイの追跡の記録) => マウロン(自身の状況の記述, いくつかの物語の記述) => 名づけえぬもの(無数の自己|非自己の口述) という変遷を進行と捉えるなら、記述によって構成可能な主体は、結局自身も記述することしかできない主体にしかなり得ない、そしてその主体による記述は、、、という構図による主体、記述、階層の崩落の進行と見ることもできるのではないでしょうか。

今度は、記憶の不具や少し触れた記述の、特に重要な時間との関係についての問題について考えたいと思います。最終的に言葉の問題に突入していければと思っています。