『NOTHING』見た

見ました。
 ヴィンチェンゾ・ナタリ監督の映画のやつです。なんとなく気になってたので見たんですが、パッケージや謳い文句から想像されるシリアスな物とは大分かけ離れていて、良かったです。
 あらすじを大まかに言うと、突然自分達とその家以外が全て消えた真っ白な世界に放り込まれてしまったクズい二人が、そこでバカげた即物的な探検や喧嘩などを展開しつつも、最後には真の友情に目覚めるという単純なもので、コメディとして見てもとても面白く、笑えるシーンが沢山あるのですが、話の方も結構シニカルでよく出来ていて良かったです。
 その話について、片や心配性の引きこもり、片や能力のない自己中という、社会的に上手く生きていくことが出来ていない二人が、それ故に打算的な共依存関係を築き(身の回りの世話の対価に家に住まわせる、引きこもりの面倒を見つつ、自分よりダメな相手に安心する)、ひもじく生活しているという状況がまずあるのですが、突如として、彼らが上手く生きていくことを阻んでいた世界そのものが彼等とその家を残して、丸ごと消え去ってしまう訳です。
 彼等はそのような新しい環境に放り込まれ右往左往しつつも、これまでとは違った関係に進んでゆくのですが、基本的には終始、しょうもなさを遺憾なく発揮し、バカげた抗争や残った僅かな物の奪い合い等(テレビゲームに敗れ家を追い出されたデイブが紐か何かで囲ったデイベニアという国を作ったりしていて、そのシーンも、笑えると共に示唆的です)を繰り返しています。
 この闘争状態は、いうならホッブズ的な自然状態、"万人の万人による闘争"的な状態で、社会に対する打算的戦略として成立していた関係が、社会の喪失によりキャンセルされ、残った僅かな物を奪い合っている訳です。外因的に決まっている闘争状態である以上、環境が変わらなければ何も変わらないので、このままだとバッドエンド直行という感じです。この監督の前作『CUBE』ではこのような闘争状態とゲーム的な環境のせめぎあいのようなものが突き詰めてられていたという風にも言えるのではないでしょうか。
 しかし面白いのはここからで、彼等は自分の消えて欲しいと考えたものを消すことが出来る事に気付き、闘争の果てに、自分達の首から上以外を全て消し合ってしまいます。その結果、相手の自然権やら家やら(なんでもいいのですが)を、奪うことも与えることも、本当に何も出来なくなるという状況になります。そしてその結果和解する事が出来る訳です。
 要は、ホッブズ的闘争状態の果てに、何も奪ったり与えたり比較することのない、極めて理念的なルソー的自然状態のような状況に至り、互いの関係に調和がもたらされるという形で、『CUBE』とは違い、救いを見せる事に成功しているという事です。 
 まあしかし、最後の結論部分に対して、世界を消すに留まらず、体さえも消し去って首だけにならなければ仲良くやれないというシニカルな結論と考えるか、首だけになりさえすれば、現実ではこんなにもしょうもない二人でも仲良くやれると考えるかは、見る人間に委ねられる所かと思います。自分は割と後者で、その事にちょっとした救いを感じました。和解といってもエヴァ的な分かり合いとかそういうものではないですし、だからこそよさがあると感じました。
 あと、登場するキャラクターの描かれ方について、彼等はクズいんですがとても素朴な人間として描かれていて、これは『CUBE』もそうだった気がするんですが、とても環境依存的に即物的に行動している(せざるを得ない)ので、見てる側としては動物実験を観察しているように感じます。最後の和解の場面も、互いに首だけしかないという状況がそうする事を規定している風に見えて、胡散臭さが薄いんですね。何もできなくなったし和解すっかみたいな。そして多分体や家が元に戻ったらまた争うのだろうというような。しかし逆に、そういう人間の描き方こそ胡散臭いという事も言えるのかもしれません。
 映像的にも、単調で何もない真っ白な世界という舞台にもかかわらず、それを飽きさせないアイデアに満ちた作りになっていて、同じく単調な、閉鎖的で何も無い箱だけをセットに、シナリオ的にも映像的にも豊かな表現がなさてれいた『CUBE』同様、この監督の、人間と数少ない道具だけで映画を上手く作れる力は素晴らしいと思います。
 それと良かったのが、真っ白い世界の透明な床が、ゴムのように伸縮するものになっていた所です。こうなっている事で、物や人はその上をポンポンと飛び跳ねるし、独特の反動音が響くので、殺伐とした何もない世界に、何も見えないにもかかわらず、常にどこか抜けた雰囲気を付け加えていました。これは終始シリアスになり切らないコメディ感にあふれたこの映画(シリアスにやり過ぎていたら最後の和解のシーンは割と白けるものになったと思います)を文字通り下から、絶妙に支えていたように思います。そして、弾む事が出来るというのが完全に何も無い世界の抜け穴としての何かとして機能していたように思います(首だけになった後もピョンピョン飛び跳ねて移動する)。あとエンドロールの音楽も良くて、この映画に対する印象は結構それに引っ張られてる気もします。
 こう見ると、ヴィンチェンゾ・ナタリ監督が『CUBE』で見せていたような、何か社会や世界から切り離され近眼的、原始的に振る舞う、コントロールされた人間、みたいなテーマが描けているし、やや荒唐無稽な状況も、コメディタッチで描く事で上手く切り抜けられているし、その先に救いを提示する事も出来ていて、シナリオ的にも良いし、それを映像として見せる事も上手くできているし、結構良いのではないでしょうか。結構恣意的な解釈ではありますが、この映画は何処を見てもまるで褒められていないのでまあ。
 そういえば、ヴィンチェンゾ・ナタリ監督の映画は他に『カンパニー・マン』というやつも見たことがあるのですが、これは諜報物をさらに戯画化したようなシナリオと、舞台のような戯画化された背景やセットが上手くマッチしていました。やはりセットの使い方がとても上手い監督のようです。
 上手くまとめられませんでしたが、良い映画でした。個人的に好きです。