『ゾンビ日記』読んだ

面白かったです。ですが、という感じです。
 どういう話かというと、世界中の人間が、死後、死んでいるにもかかわらず起き上がって歩きまわり始め、やがて、寝て起きたらランダムにそのようなゾンビ状態になっているというような事態が進行した世界で、最早ゾンビ以外誰も居なくなった中一人生きる男の話で、その男自身の日記という形式をとっています。
 その男というのが日々何をしているのかというと、どこかのビルの上から、毎日きっちり同じ数、町を蠢くゾンビの頭を狙撃しています。彼の生活はその行為を中心に最適化され、とてもシステマチックです。日記に書かれているのは、このゾンビの溢れた世界において、その行為がいかにして正当化され、意義あるある何かとして位置付けられるかという事を中心に巡る男の思考が主です。
 人間がゾンビに変わり世界がゾンビに溢れる事、日々そのゾンビ達の頭を撃ち抜く事、というのは、単にそれ以上の意味を持っており、日記の内容も、銃について、死とは何か、そこから翻って生とは何か、押井守がこだわる身体性の問題、人が人を殺すという行為に対する人間の本能的拒否感とその克服の歴史、一部の例外的人間の様相の考察など、広い射程に及びます。このあたりは押井守らしさというか、この主人公はどこまで押井守なのかと勘ぐってしまう所があります。
 男の中では、唯一生きている人間である自分がゾンビを撃つ事で、彼等を葬り完全に死なせる事になり、それが、ゾンビ以外誰もいない世界ににおける自分の、生きる上でのある種の目的意識と自身の位置付けとして機能しています。(人間は、正しく死がある事で初めて正しく生きる事が出来る云々、、、)ただの殺人者ではない訳です。それに乗っかって、極めてシステマチックな日々の生活が組み立てられています。
 何らかの目的に沿ったシステマチックな生活様式を組み立て、それに従って生きる事自体が欲望されこのような目的意識と思考が作り出されたのか、その逆なのかはわかりませんが(両方ではないかという気がします)、何れにせよ、それはある種の不能性と(死は共同体の中で正しく消化されて初めて死となる云々言いつつ、最早ゾンビしかいない。男が望むような近代的な(?)他者がいない)、しかしそれでもそれを希求する性向が空転した結果捏造された何かであるように思えます。不能なマッチョというか。一歩引いてみれば、ゾンビだけの世界で毎日きっちり同じ数のゾンビを射撃する事に最適化された生活をシステマチックに送っているゴルゴ13みたいな人間は何かおかしい訳です。とりあえず、自分はおかしいと思いました。
 形式について言うと、日記という形式はそのおかしさを相対化させません。そして、彼のような男が正しいと思えるには理論的である程度の例証を持ったもっともらしさが必要になる訳で、読者はひたすらその説得に耳を傾けなければならない訳です。そういう点で、うつ病の一人称小説的な危うさがあったように思います。
 日記でひたすら説得的に語られるという形式や、その書き手がゾンビしかいない世界の中で、それでも何か近代的な目的意識と存在意義を捏造し、それに立ってシステマチックに生活しているという事自体についてもそうですが、特に危うさを感じたのは、主人公の、ゾンビに対する一方的で独我論的な憐憫というか愛情で、その部分が最終的に、物語と彼の自己認識のターニングポイントとなっていたように思います。
 どういうことかというと、終盤、自分以外に生きている人間(達)がいて、彼等もゾンビを撃っているという事を遠くから鳴り響いた銃声から知った主人公は、その姿も見ぬままに彼等を分析し、ゾンビを暴力的に尊厳なく破壊する許しがたい存在とします。(一応銃声から用いている銃器を特定し、その非合理的に大きな銃器をゾンビに向けているという判断からそう結論付けてはいるのですが)そして彼等を殺しに行く訳です。
 主人公は、当初ゾンビを撃つ際と同じく、どこかからスコープ越しに相手を狙撃するつもりだったのですが、彼等の余りに非合理的な、身体性を欠いた銃撃スタイルを読み誤って、直接相対する形になってしまいます。(このあたりもなにか意図された皮肉さが出ています)そしておそらくはそれ故に、彼等をためらいなく撃ち殺す事が出来ます。そこで彼は自らを相対化する視点を獲得し、自身を殺人者と自認するという終わりになっています。
 何故直接に近距離で相対したが故に殺す事ができたかというと、相手(二人)の片方は少女で、子供はこれまでゾンビですら、スコープ越しに撃つことができなかった存在だったからです。彼は日記の中で、人が人を殺せるようになるために重要な要素として物理的距離と心理的距離の問題をあげていました。遠ければ遠いほど殺す事への抵抗が弱まるという事ですね。彼の場合は、物理的距離と心理的距離が反比例するような形で、スコープ越しに、物言わぬゾンビに対しては一方的な、独我論的な感情移入や愛情を持つ事が出来るが、直接相対する人間にはそのような感覚を持つことが出来なかった訳です。この距離や対象の問題というのは、画面越しの情報やロボットの内部と外部の関係、人形など、押井守がこれまでの作品の中で扱ってきたテーマの一つでもあります。
 最後のこの展開によって彼の独白や信仰がやや相対化されたことに、始めは何か安心する所があったのですが、よくよく考えてみれば、今後、自分が狂っている事を自認して、狂った自分の日記を書いていくというのは、何かディックの『ヴァリス』的な危うさそのものになってしまう訳で、ますますやばいという感じもあります。(それも含めてとても良く出来ているのですが)
 不能性や身体性の問題についても勿論そうですが、特にゾンビを巡る思考についてはイノセンスなどの"人形"についての考え等とも連続性があるように思いますし、本当に押井守らしい小説だったと思います。そもそも感想何も書いてませんが、本来感想としてはその辺についてや死生観の話(社会的な人間としての死と生物学的な死の違いや、そこから来るゾンビは何者でなんのメタファーか云々)について書くべきなのかもとも思うのですが、やっぱりあの人形周りの考え方に、イーガンとかに感じるような、うーんという印象があるので距離をとってしまいますし、あまり好きにはなれません。死生観についても、まあ近代臭いのが辛いみたいないつものあれです。
 ただ、とても上手く作られているように思います。あと、読んでから少し経つし今手元に本が無いのでやや違ってる所があるかもしれないです。