『スカイ・クロラ』見た

見ました。
 なんか退屈とかつまらないとか、評判あまり良くないので、そこまで期待していなかったんですが、意外と良かったです。
 押井作品で退屈と言われればまず『イノセンス』的なものが想像されるのですが、本作はああいった過剰な引用とかによる冗長性とは割と真逆で、とてもストレートでシンプルな作品だったように思います。
 大まかな設定とストーリーとしては、なんというか、いかにも"歴史の終わり"的な状況の世界で、それでも人間が平和に充実した生を送る為に、ショーとして、自己目的化した戦争が行われていて、そんな戦争に関わる民間軍事会社の、歳を取ることが無いキルドレと呼ばれる不老の戦闘機パイロット達の日常が描かれています。作品の舞台も、小さな基地、よく行くダイナー、空の上+αといった程度でとてもミニマルです。
 作品のテーマはだいたい、成熟する事の無い青年達の、反復される日常の空虚さとどう向きあい、あるいは乗り越えるかというような物で、よく言われる終わりなき日常と未成熟という話を実にストレートにやっていると思います。
 映像的には、すごい空戦シーンとかもまああるのですが、空虚な日常を、TVアニメとかで出来るような所からは大きく離れた(主に制作費的に)映画的なスケールで丁寧に描いている所が良かったです(このへんが退屈さの原因なのかもしれないですが、それは作品のテーマと結びついた物なのでまあ)。
 まず、反復という事が強く強調されており、また、とても金がかかっているであろう高水準な映像にも関わらず、基本的に色彩が希薄で空虚な感じになっています。他にも、飲食のシーンでは、同じ銘柄のビール瓶のみが執拗に出てきたり、冷凍の何かしらを作業のように食べていたりととても味気なく、唯一出てくるまともな食べ物であるダイナーのミートパイに対しても、どこかで食べたような味だという感想が語られます。
 特に良かったのはパイロットと仕官の3人でボウリングをするシーンで、反復される投擲と倒れるピン、それを戻すピンセッターの機械的な動き、それらに対する気のないリアクション等はそのままこの作品全体を象徴しているように思いました(ちょっと調べたら、第2次大戦直後の、廃墟の文学と呼ばた文学運動(?)の詩人であるヴォルフガング・ボルヒェルトという人の詩に、ボウリングという詩があったので、そっちの意味もありそうです)。
 物語的には、そういった成熟出来ない繰り返しの日常の空虚さに対して、一人ちょっとズレた位置にいる(本人はキルドレだが、キルドレでない娘(らしい)がいる)士官の女性を使って、単に退屈な日常を描くだけでない終わらせ方を出来ていて良かったです。
 まあそんな感じで、テーマは割とストレートだし、その表現も高水準で丁寧な作品だったと思いました。
 ただ、これ見ててなんとなく、ハーモニー・コリン監督の『Gummo』という映画を思い出しました。これは『スカイ・クロラ』の、徹底的に去勢された反復という形とは対照的に、全てが過剰というか、ひたすらに雑然としていて、生々しく混沌とした刹那的な日常が延々続いているというような形で、同じ終りなき日常の空虚さのような物を描いているのですが、自分にはこっちのほうがもっと踏み込んでいてキツい表現に思えました。
 というのも、『スカイ・クロラ』の終盤に主人公のモノローグで、「それでも・・・昨日と今日は違う 今日と明日も きっと違うだろう いつも通る道でも 違うところを踏んで歩くことができる いつも通る道だからって 景色は同じじゃない それだけではいけないのか それだけのことだから いけないのか」という問いかけるようなセリフがあるんですが、その問自体が『Gummo』的な日常の中では無意味なんじゃないかと思えるからです。
 あまり関係無いんですが、昔、建築家のレム・コールハースがドバイの高層ビルのコンペで、何も装飾らしき物のない白いのっぺりした板みたいなビルを提案していて、そこでは周囲の過度に装飾され奇を衒ったビル群から、あえて何もしないこのビルは存在感を示すというような事が言われていたのですが、そののっぺりしたデザインも、周囲の雑多な差異の中に埋もれて、周りと別に何も変わらないんじゃないかと思った事を思い出しました。
 そういえば、"歴史の終わり"以降の人間は、アメリカ的な動物と日本的なスノビズムしかないというコジェーヴの話(全く詳しくない)に、『Gummo』と『スカイ・クロラ』はそれぞれ上手いこと対応しているようにも見えますね。個人的にはどちらも大差ないように思えるのですが。まあ詳しくないし単なる思いつきです。
 いやでもこれは悪くない映画でした。