『これはペンです』読んだ

読みました。
 正直こういう本の感想を考えるの苦手で何も上手く言える事がないんですが、とても良かったです。
 『良い夜を持っている』のほうは、ボルヘスの記憶の人フネスのような記憶力がやたらとあり、物事を連続的に見るとか関連付けるとかいう能力(ゲシュタルトが云々いうんでしたっけ)が著しく弱いという父が出てくる話で、記憶の在り方を都市に例える(例えるというより実際に都市を構築しているんですが)感じはカルヴィーノの『見えない都市』を思わせて、昔のポストモダン文学っぽい感じが割と強くありました。
 『これはペンです』のほうは、叔父が色々な方法を使って、自分が文章を書くということに外部の何かを紛れ込ませ、書くということを否定しつつも逆説的に云々というあれなんですが、自分はこの2つの話を読んで、前に大学に講演に来た写真家の話を思い出しました。
 その写真家はロンドンやら東京やら上海やらといった都市で、街中を歩きまわって写真を撮りまくり、部屋中に敷き詰めたそれらの写真を拾っては大きな紙に切り貼りして、自分の記憶の中の都市の全体を再構成するという作品を作っている人でした。
 この写真家の作品を見て面白いなあと思ったのは、まず切り貼りされた写真なので、最終的に出来上がる全体に一本通しで見られる焦点みたいな物が無く、その場その場にフォーカスするような、昔の日本画(?)みたいな感じのばらけ具合でありながらも、作家個人のこだわりであるらしい、高い所に行きたいという身体性に起因して、高層ビル等高所からの見下ろし視点の写真が多く、それが最終的に構成される全体像を辛うじて繋ぎ止めていて、なんとも言えないバランス感になっていた所です。
 都市表象なんかの領域では、複雑で捉えどころの無い、全体性を欠いた現代の都市を如何に表象するか云々といった話があるそうですが、この写真家の場合はそういった目論見は無く、都市を通過することで自分自身を表現するのがコンセプトなのだと話していました。
 人は都市を厳密に空間として捉える事が出来ず、シンボル同士の連関としてイメージする為、地図を描かせると自分にとって重要な物が大きくなったり、山手線を円でイメージしてしまったりするという話は一般的です。この写真家はそういった、自らの作り出した関係性によって歪められ再構成された彼の中の固有の都市と実在の都市、そして鑑賞者である我々がイメージとして持つまた別の都市との差分から、自分を表現し伝えようとているのではないかと思います。
 『これはペンです』の話に戻ると、自らが何かを書くという行為に対して外部を紛れ込ませる事にやたらと積極的な叔父や、頭の中で都市を構築する事によって記憶し思考するその父、といった辺りが、この写真家の話を思い起こさせる理由なのかなと思います。
 ところで、『良い夜を持っている』に出てくる父は、そのようなシンボルの連関として都市を捉える事は出来ず、厳密に空間として正しい大きさ、正しい距離で都市を記憶する特殊な人だった訳ですが、記憶の際に個人的な重み付けがほとんど発生しないというのは半ば機械的ですし、写真から都市を再構成しろと言われても多分こんな感じになるんじゃないでしょうか。
 まあそんな感じで叔父は論文の自動生成を研究したり、半分以上は非人間的、非主体的に書かれた(らしい)メールを姪に送ってきたり、その父は父で記憶に人間的な重み付けを欠いたりとあれな人々が出てくる訳ですが、しかし彼等も人間だし、彼等なりのコミュニケーションがあるのだしそれはそう悪くないというような暖かさみたいなものが本作にはあるようにも思えます。その一線は割と大事なような気もしました。
書く事ねえな。でも良かったです。はい