『WATCHMEN』読んだ

読みました。
読むのがとても大変でした。うーん…。多分話自体もその背景も半分も分かってない気がします。
 まずコマ割りや表現技法等について、これはアラン・ムーアに限らずアメコミの基本的手法なのかもしれませんが、基本的に一ページ3×3の均等なコマ割りがベースになっていて、また、読み進める上での時間進行も、普通の日本のマンガと比べて一コマ辺りにかかる時間が長いように感じました。要するに、基本的にセリフ重視かつ、同じ単調なコマ割りで、前のコマと次のコマの連続的な変化とか差異を際立たせて積み重ねていくというかなり形式的なコマ割りで、クラウス・シュルツスティーブ・ライヒみたいなミニマル音楽と、ブルックナーの異常に幾何的というか形式性の高い交響曲を足して割ったような印象を受けました。
 『WATCHMEN』に見られる、交互に別のシーンを混ぜる演出や、徐々にカメラが引いてくようなアレ、コマ送り再生みたいな動きの表現、劇中劇のような漫画内漫画とストーリーが並列に並ぶ仕掛け等々は、多くがコマ割りの強い形式性によって支えられている訳で、それは素晴らしいのですが、これが普通の日本の漫画に慣れた自分の感覚だとなかなか読みづらくて、本を読むのよりも大変なぐらいに感じました。どうでもいいんですが、昔トランペットやってる先輩が、ブルックナー交響曲は演奏する側には禁欲的過ぎて苦痛でしょうがないみたいな事を言ってたのを思い出しました。  
 次にストーリーについて。正直分かった気がしないんで何か言うのも憚られるのですが、本作はリアルヒーロー物で、技術発展や社会の複雑化によって、かつてヒーロー達が活躍できたような、個人が暴力によって悪や犯罪と戦うという構図が衰退し、ヒーローは法律でその活動が規制され、加えて冷戦危機が極限に達しつつある黙示録的な状況のアメリカ、ニューヨークを舞台にして、かつてのヒーローの殺人事件を巡って、覆面自警団の強化発展版としての、生身の人間のヒーローと、事故で超人的能力を得た本当のスーパーヒーローを、人間的、社会的、政治的リアリティを持たせて描きつつ、世界大戦の危機とかといったかなり大きな物語が語られています。冷戦危機的な黙示録感や正義の挫折みたいな部分はなかなか古びていて、またアメリカ特有の問題のようにも思え、個人的に結構な距離を感じました。 
 これは単純に、自分がアニメとか漫画ばっか見てるからそう感じるだけかもしれませんが、個人的に一番気になったのは、アラン・ムーアの描くキャラクターの事です。アラン・ムーア原作のコミックについては以前『フロム・ヘル』を読んだことがあるのですが、これは思想史的背景やら近代の始まりやら理性への反逆やら何やらといったとても沢山の意味を、切り裂きジャックという事件と、その犯人であるウィリアム・ガロ卿に集約したような話でした。
 どちらを読んだ時にも思ったのですが、アラン・ムーアの描くキャラクターって、そのキャラクターや行動に背負わせている背景、隠喩、意味やらがあまりに大きいし多くて、最早キャラクターが人間なのか世界の暗喩なのか何なのか、よく分からないんですよね。
 どこまで大きな、多くの物事をキャラクターに背負わせる事が出来るのか、という視点で見ると、『WATCHMEN』ではコメディアンやロールシャッハなんかからそう言ったものを強く感じました。それをさらに突き詰めて、作者に背負わされた大きすぎる意味と人間性をせめぎ合わせると、ウィリアム・ガロ卿のように最終的には廃人にならざるを得ないのかも知れません。
 個人やその行動に限界まで大きな物を背負わせて物語を作るという作風にリアルヒーロー物というテーマはかなり適しているような気がしますが、単なる猟奇殺人鬼を描いた『フロム・ヘル』のほうが遥かにそういった側面が強いように思います。要するにアラン・ムーアの作風がとても近代文学的で、だからフロムヘルではそれを突き詰めたら時代を1世紀程遡らなければならなかったのだろうと思います。
 結局、アラン・ムーアのキャラクターに限らず、近代が終わる(始まる)から人殺すとか狂人になるとか、そういう種類の近代文学が個人的に理解出来ないというだけの事かも知れません。
 散漫かつ適当な感じですが、正直良くわからなかったのでまあ。